朝日新聞のbeに、連載している山崎ナオコーラさんの「指先からソーダ」というエッセイがある。
私は最初この欄を見た時、「コーラ」「ソーダ」に目が行ってしまった。
何これ?まさか飲み物の話題ばかりじゃないよね、と思いつつ、毎週楽しみに読ませてもらっている。山崎ナオコーラさん、れっきとした作家だ(芥川賞候補の作品もある)。
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「悪い人間が雨を見る」(8月26日)の中から抜粋。
(前略)
「だからねえ、何も悪くない人たちが死んでねえ。なんで死ななきゃならないの?なんにも悪くなんてないのに」
「ほんとねえ。悪い人が死ねばいいのに」
私は手すりにつかまりながら、窓をつたうしずくを眺めつつ、前の席に腰掛けている70代の女性2人が事故か何かについて話しているのを、聞くともなしに聞いていて、「人の死は悲しい……それにしても悪い人ってどういう人のことなのだろう……」とぼんやり考えていた。
そうして「自分は悪い人間だろうか、善い人間だろうか」と自問して、しばらくしてから、「悪い人間だとは言い切れないが、善い人間ではけっしてない」と思った。今までたくさんの人を傷つけてきた。きまぐれですぐ考えが変わるわりに、自己主張が強くて勝手なことを言う。人間関係を築くのが不得手で、上手くいかないことが多く、自分の中に不満をためてしまう。
今、私の心の中は嫉妬や愛情の行き過ぎによる怒りなどが渦巻いていて台風のように醜い。私はもし理性がなかったら何をするかわからない人間だ。大きな行動に移すか移さないかが分かれ目、ということでいいのだろうか?しかし行動に移さなくても、この醜い感情は、私を決して善人たらしめないぞ。
(中略)
たとえば人と人とが話をすると、噛み合っているようで噛み合わず、話題の次元が違ってしまう。そういうときに「意地悪な人ほど相手の話へのチューニングが上手い」と私はなんとなく思っていた。悪感情に自覚を持っていると自分の考えを絶対とは思えないので、相手のことをじっと見つめ、迷いつつ、自らを省みるのかもしれない。
人間には、悪い心との共存を探る方向があるのだろう。雫と雫が交わりながら流れていき、窓縁に溶ける。
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最初の会話の部分、人が亡くなるとよくこういう言葉を耳にする。
私はその度に「悪人は死んでも良くて、善人は死んだらいけないのか」と心の中で反論してしまう。その言葉の底に「死」というものがいけないもので、嫌うものという意識が流れている。
確かに誰でも「死」というものには悪いイメージを抱いてしまうが、果たしてそうだろうか。
四季の「夢から醒めた夢」の舞台を観た時もそう思った。
「死」はだれにも避けられないもの。私もいずれ死んでいく身。
でも、「死」で何もかも全てが無くなる訳ではないだろう。
私が今思っていること、願っていること、そんなものが誰かに受け継がれて、いのちそのものになって、続いていく。私のいのちは私だけのものではない。
ナオコーラさん自身の「悪い人間」の観察もすごい。
私たちは大抵、「私は良い人間じゃないから」という時には、謙遜の意味も含まれている。でも私自身も謙遜などというものを通り越して、「あなたは善い人間か、悪い人間か」と問われたら、決して「善い人間」とは答えられない。ずるいこともするし、嘘もつく。自分中心そのものだ。
そんな私がこうして生きていけるのも、みんなに許されて生きているからだと思う。人間だけではなく、私の周囲の自然も何もかもが許してくれているから、私がいる。
ナオコーラさんの文章に触発されて、私自身を振り返るきっかけを貰うことができた。
ナオコーラさん、これにとどまらず、またまた私を揺さぶるような文章を書いて下さいね。